思考停止産業の優等生たち – ネットコメント欄に見る現代社会の闇

こんにちは、コズエです。

最近、ニュース動画のコメント欄を見ていて気づいたことがあります。

「ご冥福をお祈りします」
「許せません」
「もっと相談できる場所があれば」

…まるでテンプレートのような建前コメントが並んでいて、それに大量のいいねがついている。

これって、立派な「思考停止産業」だと思いませんか?

ネットコメント欄は承認欲求の温床 – 優等生アピールの経済学

考えてみてください。
「ご冥福をお祈りします」と書くのに必要なのは、たった15秒程度の時間だけ。
でも得られるものは何でしょう?
いいねというお手軽な承認、「いい人」としての社会的評価、そして何より「自分は優しい人間だ」という自己満足。

これほどコストパフォーマンスの良い承認欲求充足システムは他にありません。
本当に問題を考え抜いて解決策を提示するには、膨大な時間と知的労力が必要です。
でも建前コメントなら、誰でも簡単に「社会参加した気分」になれる。

社会がこのシステムを求めているんです。
なぜなら、本当に問題の根本を考える人が増えたら困るから。

社会システムが求める思考停止 – なぜ建前コメントが蔓延するのか

「もっと相談できる場所があれば」
「周りが気づいてあげられれば」
…こういうコメントって、一見優しそうに見えますが、実は巧妙に問題をすり替えています。

本当の問題は何でしょう?
社会構造の欠陥かもしれません。
教育制度の限界かもしれません。
経済システムの矛盾かもしれません。

でも「相談場所が足りない」という個人対応レベルの話に矮小化してしまえば、システム自体を変える必要がなくなる。

つまり、建前コメントを書く人たちは、無意識のうちに現行システムの維持に貢献しているんです。
「私たちは優しい」というアリバイを作りながら、本質的な変革を阻止している。

建前コメント投稿者の心理分析 – 優等生ほど問題を悪化させる理由

面白いのは、こういう建前コメントを書く人ほど「自分は社会派で意識が高い」と思っていることです。
でも実際は、最も思考停止している層なんですよね。

本当に被害者のことを思うなら、なぜ同じような悲劇が繰り返されるのか、どこに構造的な問題があるのか、どうすれば根本的に解決できるのか…そこまで考えるべきでしょう。

でも建前コメントで満足してしまう人は、そこで思考を停止させる。
「私は優しいコメントを書いた、いいねももらった、今日も良いことをした」で終わり。

結果的に、問題は何も解決されないまま、同じパターンが延々と繰り返される。

感情論コメントの問題点 – 綺麗事で隠される思考停止の正体

「心が痛みます」
「許せません」
…こういう感情的なコメントって、実は一番楽な反応なんです。

感情を表現するだけなら、何も考える必要がないから。

でも本当に心が痛むなら、その痛みを解決するために行動するべきでしょう?
分析して、調べて、考えて、何かしらの対策を提案する。
それをしないで感情だけ垂れ流すのは、ただの自己満足です。

しかも「私は心優しい人間です」というアピール付き。
一石二鳥ですね。

あなたのその優しさ、誰のため?

結局のところ、建前コメントって誰のためになっているんでしょうか?

被害者のため?
遺族のため?
社会のため?

違いますよね。
書いている本人のためです。
「私は優しい人間だ」という自己イメージを維持するため、承認欲求を満たすため、思考する負担を回避するため。

本当の優しさって、面倒でも現実と向き合うことだと思います。
綺麗事で自分を慰めるのではなく、厳しい真実を見つめて考え続けること。
それができる人こそ、本当に問題解決に貢献できるんじゃないでしょうか。

思考停止産業の優等生になるのは簡単です。
でも、それで何が変わるんでしょうね?