沈みゆく群れは、今日も「まだ大丈夫」と唱えている

「まだ大丈夫」── その言葉が最後に役立つのは、棺の中だ。

この言葉を口にする瞬間、思考は停止する。
現実を見ることを放棄し、変化への扉を自ら閉ざす。
なぜ人は「まだ大丈夫」と唱え続けるのか。
それは偶然ではない。
人間の脳に組み込まれた、生存のための古いプログラムだ。

しかし、そのプログラムが現代では毒になっている。

現状維持バイアスという麻薬

人間の脳は変化を嫌う。
変化には未知のリスクが伴うからだ。
現状を維持していれば、少なくとも明日も今日と同じ生活が送れる。
そう信じたい。

これが現状維持バイアスの正体だ。
論理ではない。
感情だ。

年収が下がり続けても「まだ大丈夫」。
体力が衰えても「まだ大丈夫」。
人間関係が悪化しても「まだ大丈夫」。

全ての警告信号を「まだ大丈夫」で押し殺す。

「まだ大丈夫」と唱えるのは一人ではない。
むしろ、皆がそう言っているから、自分も唱えるのだ。
群れの中にいる限り、それは正しさになる。
──ただの沈没船の合唱だとしても。

なぜか。
変化することの方が怖いからだ。

転職するリスク、起業するリスク、環境を変えるリスク。
これらの具体的なリスクを想像すると、現状の問題など些細に思える。
脳は巧妙に現状の問題を過小評価し、変化のリスクを過大評価する。

そして「まだ大丈夫」という結論に辿り着く。
これは判断ではない。
現実から目を背ける、上品な自殺行為だ。

安定信仰という幻想

日本人は特に「安定」を信仰する。
終身雇用、年功序列、社会保障。
これらが「安定」の象徴とされてきた。

しかし、その安定は既に崩れている。

終身雇用を保証する企業はほとんどない。
年功序列は成果主義に置き換わった。
社会保障は破綻寸前だ。
それでも人々は「まだ大丈夫」と唱える。

それは、真実を受け入れることが怖いからだ。

「この国はなんとかしてくれる」という幻想に縋る。
誰かが問題を解決してくれる。
政府が、会社が、誰かが。
自分は何もしなくても、なんとかなる。

これは思考ではない。願望だ。

現実は残酷だ。
誰も助けてくれない。
問題は悪化し続ける。

それでも「まだ大丈夫」と唱える者は、最後まで現実を見ようとしない。

静かに壊れていく社会への盲目

社会は静かに壊れている。
劇的な崩壊ではない。
それでも誰も立ち上がらないまま、社会はゆっくりと死んでいる。

出生率は下がり続ける。
高齢化は進む。
国の借金は膨らむ。
インフラは老朽化する。

これらは全て数字で確認できる事実だ。

しかし、多くの人はこの現実を見ない。
「まだ大丈夫」だから。

なぜ見ないのか。
見ても何もできないと思っているからだ。
個人にできることは限られている。
だから見ない方が楽だ。
考えない方が楽だ。

これが「まだ大丈夫」の心理的メカニズムだ。
無力感からの逃避。

社会問題を個人の問題として捉えることを拒否する。
「社会が悪い」
「政治が悪い」
と言っていれば、自分は何もしなくていい。
責任を負わなくていい。

そして「まだ大丈夫」と唱える。
問題が解決するまで。解決しなくても。

恐怖が生み出す思考停止

「まだ大丈夫」の根底にあるのは恐怖だ。

変化への恐怖。
責任への恐怖。
失敗への恐怖。

これらの恐怖が思考を麻痺させる。

恐怖している者は合理的な判断ができない。
リスクを正確に評価できない。
機会を見つけることもできない。
ただ現状に縋り、「まだ大丈夫」と呟くだけだ。

しかし、現状維持もリスクだ。
何もしないことのリスク。
機会を逃すリスク。
時間を浪費するリスク。

これらのリスクは見えにくい。
だから軽視される。
目に見える変化のリスクばかりに注目し、目に見えない現状維持のリスクを無視する。

これが「まだ大丈夫」の罠だ。

構造的な人間の弱さ

「まだ大丈夫」は個人の問題ではない。
人間という種族の構造的な弱さだ。

短期的な快楽を優先し、長期的な利益を軽視する。
確実な小さな利益を選び、不確実な大きな利益を避ける。
現在の問題を先送りし、未来の自分に責任を押し付ける。

これらは全て人間の本能だ。
生存のために進化した古いプログラム。
しかし、現代社会ではこのプログラムが裏目に出る。

「まだ大丈夫」と唱える者は、このプログラムに支配されている。
自分では判断していると思っているが、実際は本能に従っているだけだ。

思考しているようで、思考していない。
選択しているようで、選択していない。

これが「まだ大丈夫」という思考停止の正体だ。


あなたは今、何について「まだ大丈夫」と唱えているか。