ポジティブとネガティブは本来両輪である

私たちは根本的な錯覚の中で生きている。
ポジティブは善でネガティブは悪。
明るい思考は正しく、暗い思考は間違っている。
この単純な二元論が、現代社会の思考を完全に歪めてしまった。
だが、真実は違う。
ポジティブとネガティブは、本来両輪である。
車輪が二つあって初めて車が真っ直ぐ進むように、人間の思考も両方の車輪が回って初めて健全に機能する。
ところが現代社会は、片方の車輪を意図的に止めてしまった。
その結果、私たちは永遠に同じ場所をぐるぐると回り続けている。

蓋をされたネガティブ

なぜ社会はネガティブに蓋をするようになったのか。
答えは簡単だ。
既存の成功モデルに依存する方が楽だったからである。
結婚して、子供を産んで、家を買って、安心の老後を迎える。
この美しい人生設計に乗っかれば、深く考える必要がない。
社会が用意してくれたレールの上を歩いていれば、それなりの人生が保証されていた。
だからネガティブな思考は邪魔だった。
「本当にこの道で良いのか」「このまま進んで大丈夫なのか」といった疑問は、既存のモデルに従順に生きる上では不要な雑音でしかなかった。
思考を封じる方が楽だった。
ネガティブを見なくする方が都合が良かった。
その結果、多くの人間は思考する力そのものを失った。
これまで深く考えずに生きてきたのだから、今さら「自分にとって正しいもの」を見極める力など備わっているわけがない。
彼らがこれまでうまくいったのは、自分の努力ではない。
社会システムがそれを支えていたからだ。
しかし当人たちは、それを自分の手柄だと勘違いしている。

蛍光灯の光の正体

世間があがめている光は、蛍光灯の光だ。
人工的で、どこか不自然で、影を完全に消そうとする無機質な明るさ。
その正体は、既存の生き方のモデルであり、偶然うまくいった個体の体験談であり、深く考えることを放棄した結果生まれた安易な答えである。
「ポジティブに考えよう」「前向きに生きよう」「感謝の気持ちを忘れずに」。
こうした言葉は、一見すると美しく正しく聞こえる。
しかし、それらは思考を停止させるための麻酔でしかない。
思考停止勢は、こうした既製品の答えにのっかっているだけなのに、自分は考えて生きていると思っている。
蛍光灯の光を浴びながら、自分は太陽の下にいると錯覚している。
だから救いようがない。

本当の光は闇の中にある

本当の光は、闇があるからこそ見える。
ネガティブな現実と正面から向き合った時、初めて人間は思考を始める。
絶望の底に落ちた時、初めて自分の頭で考える必要性に迫られる。
すべてを失った時、初めて自分にとって本当に大切なものが見えてくる。
この光は小さく、儚く、時として心もとない。
しかし確実にそこにある。
蛍光灯の光とは違い、温かみがあり、自然で、影と共存している。
一度絶望に瀕しなければ、自分の目を開くことなどできない。
「かわいい子には旅をさせよ」と昔の人間はよく言ったものだ。
安全な場所にいては見えないものがある。
困難に直面して初めて身につく知恵がある。
闇を知らない者に、光の価値は理解できない。

時代の転換点


これまでの世の中は、死ぬまでその状態でもなんとかなった。
既存のモデルに依存し、思考を停止し、蛍光灯の光の下で安穏と暮らしていても、それなりに人生を全うできた。
社会システムが個人の思考力不足を補ってくれていたからだ。
しかし、もうそれは無理だ。
社会は既に崩壊している。
終身雇用は幻想となり、年金制度は破綻し、従来の結婚観は時代遅れとなった。
既存のモデルは機能しなくなり、思考停止で生きてきた人間たちは途方に暮れている。
その絶望がいつ来るのか。
それは人によって違う。
中には死ぬまで自分を騙し続ける者もいるだろう。
しかし、社会システムの崩壊は止まらない。

両輪を取り戻すために

ネガティブに蓋をすることをやめよう。
現実の厳しさ、人生の不条理、社会の矛盾。
これらから目を逸らすことをやめよう。
それらは敵ではない。
思考するための燃料だ。
成長するための栄養だ。
本当の光を見つけるための闇だ。
ポジティブとネガティブが両方回り始めた時、初めて人間は真っ直ぐ進むことができる。
蛍光灯の光に頼ることなく、自分の中にある本当の光で道を照らすことができる。
現実を見据えた上での前向きさ。
それこそが、本当のポジティブである。
片輪走行はもう終わりにしよう。
両輪で進む時が来た。