こんにちは、コズエです。
「知らぬが仏」って言葉、軽い意味で使ってませんか?
例えば、友人の浮気を知ってしまったとき「言わない方がいいよね、知らぬが仏だし」とか。
職場で同僚が上司の悪口を言ってるのを聞いたとき「知らないふりしとこ、知らぬが仏〜」とか。
恋人の過去の恋愛遍歴を聞きそうになったとき「やめて!知らぬが仏でいたい!」とか。
つまり「知らない方が幸せ〜」みたいな、軽い感じで使ってませんか?
でも本当の意味って、もっと深刻だと思うんです。
真実を知ることの代償
考えてみてください。
恋愛関係の裏側を理解してしまった時のこと。
「この人、私のことを本当に愛してるのかな?それとも便利だから一緒にいるだけ?」
こんな疑問が頭をよぎり始めたら、もう素直にときめけなくなりませんか?
家族関係でも同じです。
親の愛情だと思っていたものが、実は世間体や老後の不安から来ているかもしれない。
そんなことに気づいてしまったら、家族団らんの時間も複雑な気持ちになってしまいます。
友人関係も同じです。
「この人、私と付き合ってて何かメリットあるのかな?」と考え始めたら、楽しいはずの時間が査定の場になってしまう。
映画を見ても「この脚本、観客の感情を操作してるな」と分析してしまう。
プレゼントをもらっても「これで何を期待してるんだろう」と勘ぐってしまう。
素直に感動できなくなった経験、ありませんか?
思考停止の幸福
一方で、深く考えない人たちを見ていると、なんだか楽しそうなんですよね。
「愛があれば何でも乗り越えられる」
「家族は何があっても味方」
「友情は永遠」
そんな美しい物語を心から信じて生きている人たち。
面白いことに、こういう人たちの方が日常を満喫しているように見えます。
ドラマを見て純粋に感動できるし、プレゼントをもらえば素直に喜べる。恋人とのデートも疑いなく楽しめる。
インスタに「#幸せ」「#感謝」って投稿して、本当にそう思ってる。
建前を建前と気づかずに受け入れられる人って、心が軽やかですよね。
それって、ある意味うらやましくないですか?
知ってしまった者の宿命
でも一度構造を理解してしまったら、もう戻れないんです。
「これって本音なのかな?」
「裏にある動機は何だろう?」
「この優しさの見返りは?」
そんなことばかり考えてしまう。
相手の言葉を額面通りに受け取ることができなくなる。
誕生日を祝ってもらっても「社交辞令かな」と思ってしまう。
「大丈夫?」と心配されても「面倒くさがられてないかな」と不安になる。
褒められても「お世辞だろうな」と疑ってしまう。
真実から目を逸らそうとしても、頭の片隅でずっと気になってしまう。
知らないフリをするのも、なかなか難しいものです。
つまり「知らぬが仏」って、思考を深めることの危険性を表している言葉なんじゃないでしょうか。
知れば知るほど、考えれば考えるほど、シンプルな幸せから遠ざかってしまう。
知識という呪い
こんな話があります。
マジックの種明かしを知ってしまった人は、もう純粋にマジックを楽しめない。
どんなに巧妙な手品を見ても「どうせトリックでしょ」と冷めた目で見てしまう。
人間関係も同じなんです。
一度、人間の行動原理を理解してしまうと、すべてが計算に見えてくる。
愛情も友情も、すべて「機能」として分析してしまう。
感動的な物語も「感情操作のテクニック」として解体してしまう。
これって、知識という呪いなんじゃないでしょうか。
賢くなればなるほど、純粋な喜びから遠ざかる。
理解すればするほど、素朴な幸せを失う。
知ってしまった人たちへ
「仏」って、悩みから解放された状態のことですよね。
知らないでいる人は、余計な悩みを抱えずに済む。
でも知ってしまった人は、その重荷を背負って生きていくことになる。
面白いのは、一度知ってしまった人って、もう戻れないってことです。
「知らない方が幸せだった」と分かっていても、真実から目を逸らし続けるのは難しい。
脳みそのスイッチをオフにすることはできない。
映画館で隣の人が純粋に泣いているのを見て「いいなあ」と思ったことはありませんか?
SNSで「今日も幸せ!」って投稿を見て、複雑な気持ちになったことは?
でも、それでいいんです。
知ってしまった者は、この複雑な現実を抱えて生きていくしかない。
それが、思考することを選んだ人間の宿命なんです。
「知らぬが仏」
この言葉は、思考停止の幸福を選ばなかった私たちへの、皮肉な祝福なのかもしれませんね。