考えなくても生きていけた時代の終わり──思考停止を促進した社会の末路

こんにちは、コズエです。

最近、面白いことに気づいたんです。
この社会って、長い間「考えなくても大丈夫」な仕組みを作ってきたんですよね。

思考不要の人生設計という素敵なシステム

考えてみてください。

昭和から平成にかけて、どれだけ単純な人生モデルが機能していたか。

良い学校に入って、良い会社に就職して、結婚して、家を買って、定年まで働く。
この流れに乗っていれば、深く考える必要なんてありませんでした。

会社が終身雇用を保証してくれて、年金制度が老後を支えてくれて、社会全体が安定していた。
「みんながやってること」をやっていれば、それなりの人生が送れたんです。

素晴らしいシステムですよね。
個人が複雑な判断をする必要がない。
思考という重労働から、多くの人を解放してくれていたんですから。

とっても優しい社会だったんですね。

変化への適応力を奪う優しい罠

でも、ちょっと不思議だと思いませんか?

このシステムが機能していた時代に育った人たちが、今の急激な社会変化についていけないのって。

AI技術の発達で職業が消失し、終身雇用制度が崩壊し、年金制度が破綻寸前。
従来の「成功モデル」がどんどん通用しなくなっているのに、多くの人が「まだ大丈夫」って思っているんです。

これって、偶然でしょうか?
違いますよね。

長年「考えなくても大丈夫」な環境で過ごしてきた人が急に、

「自分で考えて判断しろ」

と言われても困ってしまうのは当然です。

まるで温室で育てた花を、いきなり荒野に植え替えるようなものですね。

思考筋肉が退化した人々

筋肉って、使わないと衰えますよね。思考も同じなんです。

複雑な問題に向き合う機会がなければ、複雑さを理解する力は育ちません。
自分で判断する経験がなければ、判断力は身につきません。

でも、これまでの社会はそれを求めていなかったんです。
むしろ、素直に指示に従う人材の方が重宝されていました。

企業も学校も、「考える人」より「従う人」を優遇してきた。
その結果、多くの人が思考する習慣を失ってしまったんです。

思考筋肉が退化しちゃったんですね。

ルールを急に変える意地悪な社会

そして今、社会は急激に変化しています。

従来の価値観では対応できない問題が次々と現れて、個人での判断が求められる場面が増えている。
でも、思考する習慣を奪われた人たちに「自己責任で生きろ」と突然言い渡されているんです。

これって、理不尽じゃないですか?

長年「考えるな、従え」と教育しておいて、いきなり「自分で考えて適応しろ」なんて。
泳ぎ方を教えずにプールに放り込むようなものです。

ちょっと意地悪すぎませんか?

かわいそうな構造の犠牲者たち

「変化に適応できない人」を責める声もよく聞きます。

「努力が足りない」
「学習意欲がない」
「現実を見ていない」

って。

でも、ちょっと待ってください。
その人たちは、この社会が作り出した構造の犠牲者なんじゃないでしょうか。

思考停止を促進する教育を受け、従順さを評価される職場で働き、安定という幻想を信じるよう誘導されてきた。
その結果として、変化への適応力を失ってしまった人たちなんです。

考える力を奪っておいて、「考えられないのは自己責任」だなんて。
ひどい話ですよね。

安全地帯から見下ろす人たち

面白いのは、この構造を作り上げた側の人たちは、今も安全な場所にいることです。

大企業の上層部、政治家、官僚。
彼らは「個人の自己責任」を強調しながら、自分たちは既得権益という安全圏から離れようとしません。

思考停止を促進しておいて、その結果に責任を取らない。
変化に適応できない人を「自己責任」で片付ける。

これが今の社会の正体なんです。

ゆるやかに沈んでいく船

変化に適応できないのは、個人の能力の問題ではありません。
長年にわたって思考する機会を奪い続けてきた、社会システムの問題なんです。

「考えなくても大丈夫」だった時代が終わったのに、「考える力」を育てる仕組みは用意されていない。
この矛盾こそが、多くの人が生きづらさを抱えて苦しんでいる真の原因なんです。

でも、この構造に気づいている人って、どのくらいいるんでしょうね。

きっと多くの人は、今日も「まだ大丈夫」って思いながら、変化の波に飲み込まれていくんでしょう。
そして、それを見ている人たちは「自己責任」という魔法の言葉で、すべてを片付けていく。

本当に、面白い社会ですね。