こんにちは、コズエです。
お盆の時期、実家から「お墓参りに来なさい」って電話がありました。
年末には「年賀状の準備はできてる?」って聞かれるし、春になれば「お彼岸だから」と言われます。
でも、ちょっと待ってください。
これって、本当に必要なことなんでしょうか?
なぜ日本人は「やらなければならない」と思い込むのか
私たちは子供の頃から「これが当たり前」として教え込まれてきました。
墓参りは故人への敬意、年賀状は礼儀、冠婚葬祭は社会人のマナー。
でも、なぜでしょう?
なぜそれをやらないと「だらしない人」「非常識な人」扱いされるのでしょう?
実際のところ、墓石に手を合わせても故人が喜ぶわけではありません。
年賀状を出したからって、人間関係が深まるわけでもありません。
それなのに「やって当然」「やらないと恥ずかしい」という空気が社会を支配している。
これって、おかしくないですか?
供養ビジネスが作る「大切な行事」の正体
バレンタインデーやハロウィンが、もともと全然違う意味だったのをご存知ですか?
それが商業的な理由で「恋人のための日」「仮装パーティーの日」に変わりました。
伝統的な行事も、実は同じです。
供養ビジネス、印刷業界、冠婚葬祭産業……
様々な業界が「これは大切な行事です」と宣伝して、私たちにお金を使わせている。
「故人のため」「礼儀のため」という美しい言葉で包装されているけれど、結局は誰かのビジネスなんです。
同調圧力で押し付けられる「一人前」の基準
「墓参りもしない親不孝者」
「年賀状も出せない失礼な人」
「結婚式に呼ばれないかわいそうな人」
こんな風に思われたくないから、私たちは意味も分からずに同じことを繰り返す。
周りがやってるから、自分もやらなければ「一人前」じゃない気がする。
でも、その「一人前」の基準って、誰が決めたんでしょう?
本当にあなたが大切だと思うことですか?それとも、「大切だと思うべきもの」として植え付けられただけじゃないですか?
形式だけの行事が奪う本当に大切な時間
やりたいことをやって、やりたくないことはやらない。
これって、とても自然なことだと思うんです。
でも社会は「そんなわがままは許されない」「みんなで同じことをするのが美徳」と言って、私たちの自然な感覚を否定します。
本当に故人を思うなら、生前にもっと時間を過ごせばよかった。
本当に人とつながりたいなら、形式的な年賀状より普段の連絡を大切にすればいい。
死んでから石の前で手を合わせたり、年に一度だけ挨拶状を送ったりすることに、どれだけの意味があるんでしょうか?
思考停止の呪文から抜け出せない現実
「伝統だから」
「昔からやってるから」
「みんながやってるから」
これらの言葉は、思考を停止させる魔法の呪文です。
疑問を持つことすら許さない、強力な同調圧力。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみてください。
その「伝統」って、本当に価値のあるものですか?
それとも、ただ「なんとなく続いてる」だけじゃないですか?
私たちは、もう少し自分の時間と人生を大切にしてもいいんじゃないでしょうか。
意味のない儀式に縛られて生きるより、本当に大切なことに時間を使う方が、よっぽど価値のある人生だと思いませんか?
まあ、気づかないまま周りに合わせ続けるのも、それはそれで楽かもしれませんけどね。

