40代という名の終着駅 ─「成熟」の仮面を被った退化

「大人になったな」

この言葉を褒め言葉だと勘違いしている者がいる。

新しいことに挑戦しなくなり、リスクを避け、変化を嫌い、過去の経験だけで判断するようになった人間を見て、周囲は言う。

「落ち着いた」
「分別がついた」
「成熟した」
「丸くなった」

社会はこうして、行動力を失った人間を美化する。

だが現実を見よう。
彼らは成長したのではない。
単に、動けなくなっただけだ。

経験という名の視野狭窄

「もう新しいことはいいや」
多くの40代が口にする定番の台詞だ。

スマホの新機能は使わない。
流行りの店には行かない。
話題のサービスは試さない。

「今までのやり方で十分」と言い張る。

これを「安定志向」と美化するが、実態は脳の老化現象だ。
40歳を境に前頭前野の機能が低下し始め、新しいことへの好奇心や柔軟性が構造的に失われていく。
脳が省エネモードに入り、既存のパターンに頼るようになる。

過去の経験をパターン化し、未知の状況を既知のカテゴリに押し込める。

「どうせこんなものだろう」
「結果は見えている」

生物学的な思考停止の完成である。

若い頃の衝動的行動を「愚かだった」と振り返る。
確かに無駄も多かった。
だが、その無駄の中にこそ予想外の発見があった。

今の「効率的な判断」とは、脳が楽をしているだけ。
可能性を事前に排除する老化現象を、「経験」という言葉で誤魔化しているに過ぎない。

世間のレールが生む思考の檻

最も危険なのは、社会のレールに乗った者たちだ。

学歴→就職→結婚→子育て→定年。
この一本道を歩んで「人生経験が豊富」と錯覚する。
実際は極めて狭い範囲しか知らない。

そのくせ「若者は経験が足りない」と上から目線。
自分こそが未体験の領域を避け続けているのに。

会社員生活20年の者が、起業について語る。
結婚生活の経験者が、独身の生き方を否定する。
地方在住者が、都市部の暮らしを断罪する。

体験していないことについて、なぜ断言できるのか。

歳を重ねて得たものが、その傲慢さだけだということに気づかない。

「慎重さ」という名の恐怖心

「もう若くないから」
「失敗できない立場だから」
「家族がいるから」

もっともらしい理由を並べる。

だが、これらは全て恐怖心の言い換えに過ぎない。

失敗を恐れ、変化を嫌い、安定という名の停滞を選ぶ。
そして自分に言い聞かせる。

「これが大人というものだ」

本当の成熟とは、年齢を重ねるほど「知らないことの多さ」に気づくことではないか。
学び続ける姿勢を保ち続けることではないか。

行動できない大人たちの末路

社会は急速に変化している。

AIが既存の職業を淘汰し、新しいスキルが求められる時代。
変化への適応力こそが生存条件になる。

しかし、自称「成熟した大人たち」は変化を拒む。
新しい技術を学ぼうとしない。

「自分には無理」
「若者の仕事」

と決めつける。

結果、社会から取り残される。

それでも彼らは言うだろう。

「経験がものを言う」
「基礎が大事」

と。

最後まで現実を見ようとしない。

鈍った感性の持ち主たちへ

あなたの「経験」とは、単なる思い込みの蓄積ではないか。

あなたの「慎重さ」とは、恐怖心の言い訳ではないか。

あなたの「成熟」とは、可能性の放棄ではないか。

まだ体験していないことが山ほどある。
まだ学ぶべきことが無数にある。

行動する意欲を失った時点で、人間としての成長は完全に止まっている。
「大人になった」という言葉で、その事実を誤魔化しているだけだ。

そして最も皮肉なことに、あなたが必死に守っている「安定」など、この先の社会には存在しない。
終身雇用は崩壊し、年金制度は破綻寸前、AIが仕事を奪い、円安が資産を目減りさせる。

変化を拒み、新しいことを学ばず、「成熟」という言葉で思考停止した者から順番に、容赦なく淘汰されていく。

これが現実である。