徹底的に考え抜いた先に、静寂がある。
それは絶望でも希望でもない。
ただ、そこにある現実だ。
多くの思索者がこの静寂と出会ってきたのだろう。
私もまた、長い思索の末にここに辿り着いた。
人生という壮大な錯覚
人間は意味を求める生き物だ。
しかし、その意味とは何か。
「家族のために働く」
「社会に貢献する」
「自己実現を果たす」
これらは全て、特定の立場からの正当化に過ぎない。
金持ちは「努力が報われる社会」を信じ、貧しい者は「格差社会の不公正」を訴える。
既婚者は「愛の尊さ」を語り、独身者は「自由の価値」を主張する。
どちらも間違っていない。
どちらも正しくもない。
人生とは、究極のポジショントークなのだ。
自分がたまたま置かれた状況を肯定するために、理屈を後付けする。
それが人間という存在の構造的な特徴だ。
「意味のある人生」とは、この後付けの理屈を信じ込むことに他ならない。
死という共通の終着点
しかし、どんな理屈を並べようとも、最後には死が待っている。
年収一千万の成功者も、日雇いの労働者も、愛に満ちた家庭を築いた者も、孤独に生きた者も、全員が同じ場所に向かっている。
その時、人生の意味など何の役にも立たない。
死の前では、全ての価値観が無力になる。
全ての努力が水泡に帰す。
全ての達成が空虚になる。
これは悲劇ではない。
ただの事実だ。
興味深いのは、この事実に辿り着く道筋が人それぞれ異なることだ。
徹底的に思考した末にここに来る者もいれば、何も考えずに生きて、最後に「人生なんてこんなもんか」と気づく者もいる。
過程は正反対だが、到達点は驚くほど似ている。
残された時間の使い方
では、この認識を得た後、どう生きるか。
意味を求めることを放棄する。
目的を設定することをやめる。
ただ、興味の向くままに時間を使う。
これは諦めではない。解放だ。
「こうあるべき」という呪縛から自由になること。
世間の期待に応える必要がないと知ること。
他人の評価など、元々存在しなかったと理解すること。
残された時間を、純粋に自分の興味に従って使う。
それが思考の果てに残る、唯一の合理的な選択だ。
面白いと思うことをする。
楽しいと感じることに時間を割く。
それ以上の理由は必要ない。
なぜなら、どうせ最後は何も残らないのだから。
静かな理解
この境地に辿り着くと、不思議な平静さが訪れる。
他人が必死に意味を求めている姿を見ても、もはや批判する気持ちは起きない。
それもまた、その人なりの時間の使い方なのだと理解する。
思考を放棄して「普通の幸せ」を追求する者も、徹底的に考え抜いて虚無に辿り着く者も、結局は同じ人間という種族の一員だ。
個体差があるだけのことだ。
誰も私の人生を見ていない。
私も他人の人生を本当の意味で理解することはできない。
それぞれが、それぞれの方法で、死までの時間を過ごしているだけだ。
この理解は孤独を深める。
同時に、完全な自由をもたらす。
世間の価値観から解放され、他人の期待から自由になり、自分自身の欲望からさえ距離を置く。
残るのは、ただ流れに身を任せる自然体だけだ。
思考の果てに辿り着いた場所は、意外にも静かで穏やかだった。
ここに正解はない。
不正解もない。
ただ、現実があるだけなのだ。