個体差を認めながら自己責任を語る者たちの論理的破綻

現代社会には、奇妙な論理的矛盾が蔓延している。

「人それぞれ違う」
「個性を大切に」
「生まれ育った環境はそれぞれ」

と言いながら、結果については「自己責任」「努力不足」で片付けてしまう。

この短絡的思考は一体どこから来ているのか。
なぜ人間は、個体の違いを認めながら、同じ基準で個体を裁こうとするのか。

個体としての人間という冷徹な事実

まず、事実を確認しよう。

人間は「個体」である。
生物学的な意味での個体だ。
それぞれ異なる遺伝子を持ち、異なる環境で育ち、異なる経験を積む。
脳の構造も、神経の配線も、ホルモンバランスも、すべて個体ごとに違う。

ある個体は数学的思考に優れ、ある個体は芸術的感性に秀でている。
ある個体は社交的で、ある個体は内向的だ。
ある個体は富裕層の家庭に生まれ、ある個体は貧困層に生まれる。

これらの違いは、個体の選択によるものではない。
偶然の産物だ。

誰も自分の遺伝子を選んで生まれてこない。
誰も自分の両親を選べない。
誰も自分の生まれた時代や国を決められない。

つまり、個体の基本的な条件は、すべて偶然によって決まっている。

偶然を無視する社会の欺瞞

しかし、社会はこの明白な事実を無視する。

「努力すれば報われる」
「やればできる」
「結果は自己責任」

こうした言説が、まるで真理であるかのように繰り返される。

だが、冷静に考えてみよう。

努力する能力も、個体の特性の一つではないか。
集中力、継続力、目標設定能力。
これらはすべて、脳の機能によって決まる。

そして脳の機能は、遺伝と環境によって形成される。

つまり「努力できること」自体が、偶然の産物なのだ。

努力できない個体に向かって「努力しろ」と言うのは、足の不自由な人に向かって「走れ」と言うのと同じである。
論理的に破綻している。

成功者の錯覚と社会の共犯

なぜこのような論理的矛盾が放置されているのか。

答えは簡単だ。
成功した個体と、それを利用したい支配層の利害が一致しているからだ。

成功した個体は、自分の成功を「努力の結果」だと思いたい。
偶然の産物だと認めるのは、プライドが許さない。
だから「自己責任論」を支持する。

支配層は、失敗した個体を「自己責任」で切り捨てたい。
社会制度の欠陥を問われるより、個人の問題として処理する方が楽だ。
だから「努力論」を推進する。

この両者が結託して、論理的に破綻した価値観を社会に浸透させている。

そして大多数の個体は、この欺瞞に気づかない。
気づいていても、異議を唱える勇気がない。

個体の多様性を無視する画一的評価

現代社会の評価システムは、個体の多様性を完全に無視している。

学歴、年収、社会的地位。これらの画一的な基準で、すべての個体を序列化する。
異なる能力、異なる価値観、異なる人生観を持つ個体を、同じ物差しで測ろうとする。

これは、魚の泳ぐ能力で鳥を評価するようなものだ。
論理的におかしい。

しかし、社会はこの不条理を「当然のこと」として受け入れている。
そして、この画一的な基準で「劣っている」とされた個体に対して「努力が足りない」と追い打ちをかける。

たまたまその個体として生まれただけ

勘違いしないでいただきたい。

成功した者も、失敗した者も、たまたまその個体として生まれただけだ。

優秀な遺伝子を受け継いだ個体。
恵まれた環境で育った個体。
適切なタイミングで適切な場所にいた個体。

彼らの成功は、大部分が偶然の産物だ。
努力は成功の必要条件かもしれないが、十分条件ではない。

同じように努力した無数の個体が、偶然に恵まれずに失敗している。
その事実を無視して、成功者だけの声を聞き

「努力すれば報われる」

と結論づけるのは、論理的に誤っている。

構造的問題を個人の問題にすり替える手法

「自己責任論」の最も悪質な点は、構造的な問題を個人の問題にすり替えることだ。

経済格差、教育格差、情報格差。
これらは明らかに社会システムの問題だ。
個体の努力で解決できるレベルを超えている。

しかし「自己責任論」があれば、これらの問題を「個人の努力不足」として片付けることができる。
根本的な改革を行う必要がなくなる。

支配層にとって、これほど便利な思想はない。
被支配層が自分で自分を責めてくれるのだから。

論理的矛盾の正体

個体差を認めながら自己責任を語る。
この論理的矛盾は、現代社会の根深い欺瞞を象徴している。

成功した個体は、偶然を努力と錯覚したい。
支配層は、構造的問題を個人の問題にすり替えたい。
この両者の利害が一致した結果生まれた、論理的に破綻した価値観。

それが「自己責任論」の正体だ。

成功者の常套句とその破綻

ここで、成功者の常套句を検証してみよう。

「でも俺は貧困から這い上がった。だから誰にでもできる」

これは典型的な論理的錯誤だ。
それは「できた個体」がそうだったという話に過ぎない。

同じ貧困環境に生まれた無数の個体のうち、這い上がれるのは極少数だ。
同じように努力しても、能力が足りなかった個体、タイミングが悪かった個体、運に恵まれなかった個体は静かに消えていく。

生存者の証言だけを聞いて「誰にでもできる」と結論づけるのは、墜落事故の生存者だけに話を聞いて「飛行機は安全だ」と言うようなものだ。

その差こそが、個体差であり偶然の正体だ。
成功した個体も、失敗した個体も、たまたまその個体として生まれただけなのである。

偶然という冷徹な事実

私たちは皆、偶然この世界に生まれ落ちた個体だ。

選択の余地なく与えられた条件の中で、それぞれの生を営んでいる。
成功も失敗も、大部分は偶然の産物だ。

この冷徹な事実を受け入れるかどうか。
それは、それぞれの個体に委ねられている。


個体差を認めながら自己責任を語る者たちよ。
あなたがたの論理は破綻している。

その「努力の結果」は、本当に努力の結果ですか?
それとも、そう思い込まないと自分を保てないだけですか?

その「自己責任」、誰のために信じているのですか?