「昔はモテてた」
「若い頃は輝いてた」
「現役の頃はバリバリやってた」
そんな言葉を口にする人間を見ると、
今の自分では何も語れないのだろうなと判断する。
過去を誇ること自体は構わない。
だが、それを今と結びつけることができていないなら——
それはただの「現在の空白を埋める装飾」に過ぎない。
偶然の適合は、再現されない
かつて得た称賛や充足感の多くは、
本人の努力ではなく、“その時代における一時的な適合”によって成り立っていた。
- 若さ
- 外見
- 空気の読める性格
- 誰かの庇護
- 社会が求める振る舞いと一致していたという偶然
そういった「たまたまハマった条件」が整えば、
誰でも“輝いていたように見える瞬間・時代”はある。
だがそれには、構造がない。
原理がわからない。
再現できない。
だから、時間が経てば失われる。
「過去を語る」のではなく、「今につなぐ」ことができるか
本当に生きている人間は、「今」に根を持っている。
だから過去を語るとしても、それは現在を通して語り直す行為になる。
昔はよかった——
そう言い切った時点で、その記憶は“今から切断された”ということだ。
切断された記憶は、ただの回想に堕ちる。
そこに意味は残らない。
逆にどんなに暗い過去でも、今に組み込んで語り直すことができるなら、
それは生きた証になる。
「今しか見ていない」は、逃避の言葉だ
過去を背負っていない者は、今を強調したがる。
「私は今だけを見て生きている」
そう言うことで、まるで“前を向いている”ような気になれる。
だが実際には、
過去と向き合うことを避け、未来を想像する力も持たず、
「今しか見られない」状態にある者が、この言葉を口にする。
それは強さではない。
逃避だ。
本当に“今を生きている人間”は、そんなことはいちいち言わない。
言葉にする必要がない。
黙って、現在進行形で生きている。
過去を捨てず、引き受けて語り直す
過去を誇るな、と言っているのではない。
むしろ、過去を抱えて生きてきた者にこそ、語る資格がある。
だがそれは、“今に繋がっていれば”の話だ。
過去の痛みを引き受け、言葉にし、構造を見抜き、
現在に反映できて初めて、それは価値を持つ。
語らなければ消えるような栄光は、所詮その程度だ。
過去に頼るのではなく、それを今に昇華させる力こそが、生きているということだ。
終わった人間と、今に立つ人間の違い
「昔はよかった」と語る人間は、
その過去を“今に繋げる力”を失った人間だ。
それは敗北ではない。
だが、もはや今を生きてなどいない。
対して、過去を素材に、今を語り、
現在形で積み続けている人間がいる。
そういった人間こそが、まだ生きている側にいるのだ。
・・・そして、この本質に気づけた者だけが、線の向こうから這い上がることができる。